もはやその段階ではない

guruguru brain桂田氏と会話。昨今の音楽の聴かれ方について。spotifyの登場でダウンロード販売の終焉すらも見えてきたとのこと。個人消費という観点では音楽を聴くことは無料であることが当然になってきたと思う。ビジネスとしての音楽はまさに特異点を迎えている。現在はイスとりゲームのように、アーティスト、あるいはレーベルがシャッフルしながら座るイスを狙っている、そんな状況に思える。まさにカオスであり、グローバリゼーションのひとつの結果だろうが、誰がこの状況を望んだか、ではなく、すべての人々が望んだものを帰結するとこうなる、と考えるのが妥当だろう。バベルの塔は王の権威を象徴するものでもあったろうが、バベルの塔の如き公共事業は人々の生活のために不可欠でもある。それが神の怒りを買うとしても、止めることができるのか?無論できない。塔は破壊され混沌がもたらされた。この話の教訓とは何か?神への挑戦への警告ではなく、行きすぎた進化がさらなる未知の問題を生み出すという歴史的事実の寓話であるように思える。本能の破
壊された人類にとっての真実は不自然であるべきだろう。
音楽、というより市場は完全なる自由を目指すだろう。市場は常に欲望をシンプルに反映するが、現実世界は様々な要因が介入するのでタイムラグが生じる。そこには様々なポジションがあり基本的にはミュージシャンもポジショントークをしているに過ぎない。ファッションと同様に来年のトレンドを会議で決定するような事態もありうる。現実世界でのグローバリズムへの逆行のようにも見える動きは何なのかといえば、タイムラグが原因であるように思える。市場のスピードに既存のシステム、例えば国家が追いつかないために起きるドップラー効果のようなものではないだろうか。そこで問題は決められたゴールに向かって、どのように進むことが適切(なスピード)か、ということになる。早過ぎる変化に対して、人間の心は対処できるようになっていない。昨今の、市井ではレイシズム国家主義、そして広く見れば権力の諸組織同士の癒着は人々が現在のポジションを維持するための、変化に対する反応である。欲望のスピードと威力に対してはそれまでの、理念とされる
民主主義や平等といったものも簡単に、個人レベルの感情として覆されることがわかった。そこで考えられるのは、理念もまた、人間の感情に圧倒的に先行していたということだろう。人々がその先行する理念と現実との齟齬に対する処置を必要としているのは明らかであろう。ここにおいて改めてマルクスの影が現れる。

生まれつき体験したことを激しく感じ過ぎる。よい体験も、反対に不快な体験も記憶に強く刻みつけすぎてしまうのはどうやら自分の固有の特徴のようだ。それで、自分のなかでは、よい体験というのは、ビデオや写真のように視覚的に蓄積されている。それもかなり処理されている。仕事中に曲が浮かんでこっそりメモを取ったときのような、創造的な至福体験は、なぜかそれをやっている自分の姿が映像として登場する。反対に不快な体験はそのときの精神状態そのものが、そのまま維持される。腹立たしさや絶望感がそのまま映像のない感情として再現されるので、余計に腹を立てたり絶望したりする。あんまりそうならないように常に創造的な至福体験のほうを追い求めていくのだけれど、そういう体験は、瞬間に脳内でドーパミンが分泌されて、あとから記憶として処理されるときにはかなり漂白されてしまう。これはかなり短時間しか持続しないので、常にそれを追い求めるのかなと思った。脳内の現状の処理状況はそれとして、不快感情を同じように漂白する方法はあるまいかとも思
う。創造的な仕事には適しているけれど、日常生活や、例えば音楽をやっていても必ず付いて回る事務作業に支障をきたすからだ。
今年はあまりバランスのよくない一年だったので、来年はもう少し、極端なバランスを正常化させたい。

最近の世の中の状況をみると、人間が世界を呪うことで、世界が呪いの重みに耐えかねているように感じる。
世界の理不尽や不条理に生身で晒されて怒りを抱えた個人がこの世界は生きるに値しないと考えたとき、世界を壊そうとするだろう。
かつてもそういう呪いはそこここにあったと思うが、それは重くなってきていると感じる。それは世界の市民社会化に原因があって、世界の市民社会化は、格差を露わにし、それを意志した人々の理念とは逆方向の、怒りをも拡大したのだ。
怒りを昇華する方法と世界を認識する方法は似ている。どちらも対象を全体から取り除いてふるいにかけ、丁寧に磨き上げるからだ。余分な感情や先入観を削ぎ落としたところからみえてくるのはいつでも、ちっぽけな認識者としての自分だ。しかしながら、怒りに飲み込まれそうになることもある。悔しさややるせなさに対処するきまった方法があるだろうか。同様に、世界がデタラメならその世界を認識する最適な方法なんてあるだろうか。
この世界の片隅に」を見てきた。小学校来の友人と一緒に。世界がそういうもんだ、ということを見せられているような気がした。世界には理不尽や暴力とかがたくさんあってしんどいけれど、時々楽しいことや愉快なこともあります。
そういうことを見せられて、この世界に生きる価値はあるかと問われれば、やっぱりYesなんだな、と言いたくなった。久しぶりに小学校来の同級生に会って映画に行くような、そんなことも起きる世界に生きる価値はあるかと言われれば、やっぱりYesと言わざるを得ず、しんどいなあと言いながら世界を呪わずに済んでいる。

最近はレコーディングされた音源の編集でせっせとスタジオに通っている。それで音のイメージを話すときに、自分の場合どうしても抽象的な言葉になってしまうのだけれど、それを理解してくれるのでとても楽しい。理解というのは音のイメージを理解してくれるのではなくて、音を抽象的な言語で説明すること、説明できる能力を理解してくれるということで、むこうも抽象的な言葉で音を説明してきて、それもまた楽しい。例えば最近の流行の音楽の傾向は、身がみっちりと詰まって赤黒くなったような音ばかりで疲れる、といったようなことを話すだけで癒されるような気持ちになる。言われるまで自分のなかには赤黒いイメージは無かったのだけれど、言われてみればそれはそういう感じがする。
そんなふうなコミュニケーションは同じ音楽をやっていてもそうそうできるものではなくて、最近ようやくそういう友達が出来てきてとても楽しい。音色についての会話とか、抽象的な概念についての理解とか、刺激に対しての反応の激しさについて、同じような特性を与えられたひとにもっと前からたくさん出会っていればまた違った表現もありえたのかなと思う。音楽を言葉に置き換えるので最近印象的だったのは、Novembersというバンドの小林さんのインタビューで、仏像をつくるような感じ、というもの。仏像は既存のフォーマットや対称性が厳密である点も含めて、彫刻というよりも、ある種の音楽に沿っていると思える。

アメリカ大統領選挙結果について考えたことについてまとめておく。
最初は民主主義社会を維持するためにひとびとに求められる教養が失われつつあると感じた。正常に民主主義が機能するために教育が不可欠であり、それが不全であるためにひとびとの政治参加は未来へのものではなく、その場の感情の発露とされているということ。
しかし次に感じたのは、民主主義社会に対する期待はずれに対する反応なのではないかというもの。教育を受け教養もあるひとびとが、エリート、当然教養のある人達をリーダーにしても
生活はよくならない、そんな経験を繰り返していくことで醸成された感情ではないかというもの。
そしてリベラルな価値観を持つひとびと、自分も含めたひとびとが、その価値観の正当性を主張するとき、既にその立場がリベラルな世界のなかで少数の恩恵を受ける側であるのだという自覚があるだろうかという点。我々が享受する自由は、搾取の上に成り立っているのだというのが、一つの国家のなかで、名目的には平等である社会のなかで表面化したのではないか。すなわち問題は単純に、レイシストやハラスメントに収斂しない。知的なひとたちはレイシストを嘲笑うだけでは物事は解決しないのだ。

以前働いていたレコード店から依頼があってトークとライブをやった。働いていた頃は、自分がやっていた音楽と、レコード店で働くということがあまり関わりがあるように思えず自分がミュージシャンであるということは傍に置いて店に出ていたように思える。しかし数年経ってこうした話が来るのはお店の事情もあるだろうし、こちらの気持ちの変化もあるだろうし、長いことやっていけばこういうこともある、といった類のことのような気がしている。
だいたいは現状の日本の音楽のことを、自分が所属しているgurguru brainの他のアーティストの音楽を紹介しながら話した。世界で今何が起こっているのか、というのが音楽に限らずこの国では理解しづらいというのが実感としてあるのだけれど、それは個々の事情の帰結であるように思う。情報はいくらでもあるけれど人が何の情報を欲しているかというのは個々に委ねられており、遠くに行きたい人はどこまでも遠くに行くための情報が用意されているし、留まりたい人にとってもいくらでも、留まるための、あるいは留まることを肯定するような情報も無数にあるだろう。
今回は遠くに行きたい人たちのことを、自分もそうだが少しは話すことができたと思う。
それともう一つ、シベールの日曜日について語るときにいちばん影響を受けたバンド、裸のラリーズをどう思っているかについても話した。その中で一番話したかったことは、ある種の、ラリーズについて語られる言葉は、ある種のナショナリズムというか、盲目的な自己愛めいたものであるということだ。
例えばラリーズシューゲイザーと呼ばれる音楽を先んじていたというような言葉については、自分は否定的な立場をとるということで、それはそのような文脈を意図していなかったにもかかわらず、後から見る人々がその意味あいを拡大解釈していくという中に見え隠れするか過大評価を否定するということである。ラリーズはクールであるけれど、文脈を後付けすることは誤解につながり、誤解は傲慢につながる。
ですから、我々が今求められているのは、現状のアドバンテージ、例えば50年ほど前から日本では独自に海外の音楽を日本国内で製造していたこと、そして日本にはもともと優れた音楽関係の機材を製造していたということ、それを最大限利用して世界市場で戦っていくこと、戦っていく能力を養うことであるというような話をした。

話は変わって、改憲議論について一つ、加藤周一が生前講演会で言っていたことをまた確認すると、日本以外の国で、例えばフランスなどで改憲が頻繁に行なわれているけれども、それは憲法精神をより強化するため、あるいはより細かいケースに即して憲法精神を表現できるようにするために改正されてきたということ。そして現行憲法の中で、すでに基本的人権は永久の権利であるとうたってあるので、改正はその永久の権利をより具体的に、様々なケースに適合できるようにするため、あるいはより強化すべきだという要請を受けてするであるべきというようなことを語っておられる。であるので自民党改憲案のような、基本的人権という現在明文化されている永久の権利を制限しようとする草案を、為政者が通そうとすることは、それ自体が憲法違反であるということと、他国の改憲とは異質のものであるということは留意すべき点であるように思う。

最近あまり起伏のないようなものの録音を始めた。こういうのを聴くのは好きなのだけれど、自分の作っているものの手ごたえが殆ど無く、だいたいは死ね!とかクソだわ、とか酷い悪態を自分について終了する。たくさんのアイデアを整理する方法が確立されていないように思える。
18歳くらいで、初めて録音をはじめたとき、MTRを前に悪戦苦闘しながら、数々のしょっぱい音源を作っていたときのことが否応なく思い出されるが、新たな道をつくっていく上で必要なことだとも思っている。
演奏に制約を加えて、何回か単独でライブをやったりもしたことがあるのだけれど、大抵はよくわからないまま終了、というのが多くて悲しくなる。本当に聴くのは好きなのにそれを自分でできないというのはとてもつらい。やっていくうちに自分の得意なことを見つけるしかないようだ。

現状の社会情勢を顧みれば、傲慢と卑屈の反復を繰り返す近代以降のこの国のすがたが立ち現れる。
昨今目にする大小の弱者差別には目眩すらするが、この傲慢は一昼夜で成し遂げられたものではない。結論からいえば、直面する状況の変化によって、元々もっていた性質のある部分が顕在化した、それだけのような気がしている。そのような時代において、個たる人間になしうる最大限の抵抗とは何か?という問いかけに取り掛かったのは原発以降の葛藤のなかでだった。
そうしてたどり着いたひとつの結論は、美を追求する、ということであった。これは美容に気を使うとかでは勿論なくて、美しいとは何だろう、何が美しいのだろう、そういうことを考えて生きていく、それこそが傲慢への抵抗たり得る、そう考えるに至った。美しさとは何か。私が美しいと考えるものを他の人も美しいと思うことができたら!それは戦いであり抵抗である。自己愛でなく外部へと拡散していく力であって初めて美しさは美しさと認められる。
かつて加藤周一の、小さな花、という随筆を読んだ。わたしは加藤周一の文章を愛するひとがすべて、権力や買収に屈さないとは思わない。だれもが少しは持ち合わせているものを、貫き通せるほどすべてのひとは強くなく、また加藤周一のように知的でもないだろう。しかしだれもが少しは持ち合わせているものはだれもが共感できるということであって、権力や圧力に対して、美しさは唯一の抵抗であり、立場や世代や金銭的価値を超えて、実存へと立ち返らせるものであるべきだと思う。