2011-01-01から1年間の記事一覧

カフカ「城」をようやく読み終えた。気になったところのページの端を折って、あとからそこに傍線を引くのだが、いまはその作業をしている。この小説は未完で、結局城の全貌を掴むことがないまま終わるのだが、そもそもはじめから誰にも全てを理解することの…

写真

マイケル・ケンナという写真家に最近注目している。「HOKKAIDO」というタイトルそのままの作品でその名前を知ったのだが、大判カメラの長時間露光で撮られた写真群のなかにはわたしの生まれ育った町の写真も含まれているのにも関わらず、その被写体に懐かし…

自己愛

岸田秀「ものぐさ精神分析」を読んでいる。この本は、自分が漠然と考えていたことを体系的にまとめて書いているように感じる部分もあれば、より深く追及している点もあって、興味深いのだが、あまりに考えたとおりのことを書かれすぎて、かえって疑いをもつ…

美術品と商品 

ワタリウム美術館に草間弥生展を見に行った。この美術館では展示を見るためにいちどエレベーターに乗らなければならず、つねに職員がエレベーターのなかに待機して、ボタンを押している。肝心の展示はというと、点数が少なく、60年代に草間弥生がデザインし…

黄金時代

書き溜めたノートが整理しなければ収拾がつかないような状態なので、少しずつ整理を始めている。いちばん古いものだと19歳から20歳くらいのときにつけていた手帳がある。そこには、そのときたまたま見ていたテレビで印象に残ったこと、例えば「伊賀焼きは雑…

10月のメモ

山本義隆「福島の原発をめぐっていくつか学び考えたこと」を読んだ。この本は分量的には少なく、特別の変わったことが書かれているわけではないけれど、科学の発達と、原子力技術との、理論と実践とのあいだの距離についてと、技術における倫理的問題として…

同一空間の永遠に交わらない二線

最近とても嫌な言葉を目にした。ある人が、アーティストという人種を注視しているという。そういう人は感性で動くから、地震や放射能汚染に反応しないのは感性が死んでいるか、金にまみれているかのどちらかだ、という言葉なのだが、その事を知人に話しても…

苦痛の探求

先日、戯れに「自分が過去に戻ってやり直すなら何歳のときに戻るか」という話をした。三歳、というのがわたしの解答だが理由ははっきりしている。わたしは四歳で小児喘息にかかったのだが、それまで掃除機の排気口からでてくる温かい風を浴びるのが好きだっ…

風景の楽しみ方

時間があったのでロマンスカーに乗ってみた。東京の電車は北海道のと違って席が内側を向いているが、ロマンスカーは進行方向に座席が向いているので風景を楽しみやすい。 風景の楽しみ方はいくつもある。 まず、距離を楽しむというのがあります。そのために…

芸術と疾患との関係、あるいは認識の二重構造

前回の、「エンディングノート」という映画を見ているときに、もう一つ別の映画を思い出した。ヴィム・ヴェンダース監督の「ニックス・ムーヴィー 水上の稲妻」である。この映画は、癌に冒されたニコラス・レイという映画監督を、ヴィム・ヴェンダース監督が…

ひとりの人間の死

久しぶりに映画館で映画を見た。砂田麻美監督「エンディングノート」という作品で、なんの予備知識もなくたまたま見たのだけれど、とても面白かった。この映画は、サラリーマンの男性が定年後に癌宣告を受け、死ぬまえに家族のために死後のことの段取りをす…

記憶の地図

最近は訳あって、携帯電話もパソコンもない人に連絡をとるようになったのだけれど、当然、連絡手段は電話や、あるいは手紙になるのだけれど、それがかえって心地よいような気がしている。電話をするとその人の母親が出るのだけれど、知人の母親と話すという…

読む

人から本を貰うことがたまにある。「僕が読んだ本でとても面白かったから君も読んでごらんよ」というような感じでなく、新品をくれる。もしかしたらその人はもう一冊持っているのかもしれないが、そうでない場合もある。一度、25歳ころに、誕生日のプレゼン…

暴力と真実

大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)を読み返す。この小説はわたしが一番多感な時期に読んだ小説のなかで、当時のわたしにとっては群を抜いて難解な小説であったと思う。この小説を何故いま読み返そうと思ったのかは定かではないが、ここ最近の反原発デ…

シンパシー

先日の夜、電車の端の席に腰掛けていた。空いた座席の反対の端に大きなギターケースをかかえた人がいて、見覚えのあるシルエットだと思ったら、小学校から高校まで一緒だった同級生の女の子(とあえて書くのは記憶のなかではそのときの印象が強いから)だった…

幸福な家

加藤周一についてはその本の情報量があまりに多すぎて、うまく抜き出すことが困難だと思う。本当はもっとわかりやく書きたいと思っているのだが・・・。ともかくそこから離れて、自分という存在がどのようにして形づくられたかに戻りたい。子どもというものは、…

情報を通じてみる都市と地方での音楽状況のちがい

加藤周一「科学の方法と文学の擁護」のなかで、技術の発達と、それに関係して情報の伝達について触れているところがある。技術と情報との関係というのがあって、第一に、技術の発達によってあらゆる情報の量が多くなった。第二に情報の量だけでなく、新しい…

部品

加藤周一「科学の方法と文学の擁護」を読んでいる。この本のなかで、科学と、技術と、それから文学について、それと、「知る」「信じる」「感じる」という、人間の感情について、それぞれの立場と関係を明らかにしながら論じている。科学とは(役に立たなくて…

灰とダイヤモンド

ここ最近は、ひとりの殺人者が思春期のわたしに与えた影響について書いた。その事件に対する周囲の反応への違和感が、犯人への親近感へと誤解あるいは転化されていったことも付け加えたい。 この件は考えていると暗澹たる気持ちになるので、そもそもの根本、…

集団心理

昨日の文章は我ながら強引だと思う。 まとめると、世代的問題であった少年犯罪に遭遇したときに、わたしは同世代の集団心理、同調的心性を脅威として意識したといえるだろうか。 そういった集団心理の国家規模での発露の端的な例が太平洋戦争時の―わたしにと…

不安

わたしというひとりの人格が、青年期のはじめに起きた、世間を騒がせた一連の事件によって与えられた新たな感覚とはなんだったか。それは、わたしという人格と無関係に与える情報としての犯罪可能性を持つ“少年”というひとつの集団にわたしが属しているとい…

同世代3

私が小学生の頃、毎年夏休みには車で4時間ほどかかる父方の祖母の家に行くことが恒例だった。当然、盆休みだから行くのだが、祖父の墓参りに行った経験は驚くほど少ない。キリスト教徒だった祖父の墓地へは一度しか行っていないはずで、そのため私は夏休みに…

同世代2

前作から続いてのカミュ「異邦人」のムルソーと我々同世代の凶悪犯罪者との関連について、愚かにも真剣に考えれば、それは異なると言える。理由は我々の世代があまりに自己顕示的であるということだ。前回の見解、(我々と同世代の人間の大多数が人を殺しては…

同世代

すっかり読書日記と化しているが、もう少し時間をかければ自分の言いたいことを統合できるのにと反省しきりである。ここ最近は「ジミ・ヘンドリックスとアメリカの光と影」という本を読んでいる。これはジミ・ヘンドリックスという特異点ともいえる人物が出…

疲れ

三島由紀夫「宴のあと」はプライバシー裁判で有名な小説だが、その小説における主人公、料亭の女主人である福沢かづは、夫となる革新政党の老政治家野口雄賢の選挙において暗躍する。というのが筋である。ここでかづのする行為が、(恋愛という動機に基づいて…

精度

蝋燭づくりをはじめてみた。きっかけは代々木上原にあるキャンドル専門店の蝋燭がたいへん綺麗だったからで、材料やつくりかたを色々調べ、通信販売で材料を購入し、一週間ほど汗だくになりながら寝ても醒めても蝋燭を作り続けたのだが、どうしてもその店の…

会話

前回は支離滅裂でどこか焦点が合わない文章を書いてしまったと思う。 本についてのことを書く場合には、いくつかの文章を抜き出し、それを統合して、そこに共通する感覚を集約し、自分の言いたいことを書くことを目的としているが、なかなかうまくいかない。…

羊の歌

加藤周一著「羊の歌」は戦前・戦中・そして戦後の東京が焦土と化すまでの過程のなかで、家族、学校とその友人、そして市井の状況を映す鏡のような自己の心理的な動きを描いた自伝である。その徹底した客観性はおそらくは本人の気質によるものであり、それゆ…

記憶の所有権は誰にあるか

久しぶりに文章を書いて思うことは、自分の考えていることと言葉の並びがどの程度一致しているかということで、この点において自分の言葉の選び方、並べ方の精度にはいつも苦悩させられる。理由はたくさんあるが、まず語彙の少なさが挙げられる。長大な文章…

至上の愛

某大型レコード店に行って商品を見ていたところ「日本のサイケデリック(ロック)シーン」という言葉を目にしたので、日本のサイケデリック(ロック)シーンとは何だろうと素朴に疑問を持った。東京にきて3年目になるがサイケデリックシーンというものに遭遇した…