最近の世の中の状況をみると、人間が世界を呪うことで、世界が呪いの重みに耐えかねているように感じる。
世界の理不尽や不条理に生身で晒されて怒りを抱えた個人がこの世界は生きるに値しないと考えたとき、世界を壊そうとするだろう。
かつてもそういう呪いはそこここにあったと思うが、それは重くなってきていると感じる。それは世界の市民社会化に原因があって、世界の市民社会化は、格差を露わにし、それを意志した人々の理念とは逆方向の、怒りをも拡大したのだ。
怒りを昇華する方法と世界を認識する方法は似ている。どちらも対象を全体から取り除いてふるいにかけ、丁寧に磨き上げるからだ。余分な感情や先入観を削ぎ落としたところからみえてくるのはいつでも、ちっぽけな認識者としての自分だ。しかしながら、怒りに飲み込まれそうになることもある。悔しさややるせなさに対処するきまった方法があるだろうか。同様に、世界がデタラメならその世界を認識する最適な方法なんてあるだろうか。
この世界の片隅に」を見てきた。小学校来の友人と一緒に。世界がそういうもんだ、ということを見せられているような気がした。世界には理不尽や暴力とかがたくさんあってしんどいけれど、時々楽しいことや愉快なこともあります。
そういうことを見せられて、この世界に生きる価値はあるかと問われれば、やっぱりYesなんだな、と言いたくなった。久しぶりに小学校来の同級生に会って映画に行くような、そんなことも起きる世界に生きる価値はあるかと言われれば、やっぱりYesと言わざるを得ず、しんどいなあと言いながら世界を呪わずに済んでいる。