最近はレコーディングされた音源の編集でせっせとスタジオに通っている。それで音のイメージを話すときに、自分の場合どうしても抽象的な言葉になってしまうのだけれど、それを理解してくれるのでとても楽しい。理解というのは音のイメージを理解してくれるのではなくて、音を抽象的な言語で説明すること、説明できる能力を理解してくれるということで、むこうも抽象的な言葉で音を説明してきて、それもまた楽しい。例えば最近の流行の音楽の傾向は、身がみっちりと詰まって赤黒くなったような音ばかりで疲れる、といったようなことを話すだけで癒されるような気持ちになる。言われるまで自分のなかには赤黒いイメージは無かったのだけれど、言われてみればそれはそういう感じがする。
そんなふうなコミュニケーションは同じ音楽をやっていてもそうそうできるものではなくて、最近ようやくそういう友達が出来てきてとても楽しい。音色についての会話とか、抽象的な概念についての理解とか、刺激に対しての反応の激しさについて、同じような特性を与えられたひとにもっと前からたくさん出会っていればまた違った表現もありえたのかなと思う。音楽を言葉に置き換えるので最近印象的だったのは、Novembersというバンドの小林さんのインタビューで、仏像をつくるような感じ、というもの。仏像は既存のフォーマットや対称性が厳密である点も含めて、彫刻というよりも、ある種の音楽に沿っていると思える。

アメリカ大統領選挙結果について考えたことについてまとめておく。
最初は民主主義社会を維持するためにひとびとに求められる教養が失われつつあると感じた。正常に民主主義が機能するために教育が不可欠であり、それが不全であるためにひとびとの政治参加は未来へのものではなく、その場の感情の発露とされているということ。
しかし次に感じたのは、民主主義社会に対する期待はずれに対する反応なのではないかというもの。教育を受け教養もあるひとびとが、エリート、当然教養のある人達をリーダーにしても
生活はよくならない、そんな経験を繰り返していくことで醸成された感情ではないかというもの。
そしてリベラルな価値観を持つひとびと、自分も含めたひとびとが、その価値観の正当性を主張するとき、既にその立場がリベラルな世界のなかで少数の恩恵を受ける側であるのだという自覚があるだろうかという点。我々が享受する自由は、搾取の上に成り立っているのだというのが、一つの国家のなかで、名目的には平等である社会のなかで表面化したのではないか。すなわち問題は単純に、レイシストやハラスメントに収斂しない。知的なひとたちはレイシストを嘲笑うだけでは物事は解決しないのだ。