以前働いていたレコード店から依頼があってトークとライブをやった。働いていた頃は、自分がやっていた音楽と、レコード店で働くということがあまり関わりがあるように思えず自分がミュージシャンであるということは傍に置いて店に出ていたように思える。しかし数年経ってこうした話が来るのはお店の事情もあるだろうし、こちらの気持ちの変化もあるだろうし、長いことやっていけばこういうこともある、といった類のことのような気がしている。
だいたいは現状の日本の音楽のことを、自分が所属しているgurguru brainの他のアーティストの音楽を紹介しながら話した。世界で今何が起こっているのか、というのが音楽に限らずこの国では理解しづらいというのが実感としてあるのだけれど、それは個々の事情の帰結であるように思う。情報はいくらでもあるけれど人が何の情報を欲しているかというのは個々に委ねられており、遠くに行きたい人はどこまでも遠くに行くための情報が用意されているし、留まりたい人にとってもいくらでも、留まるための、あるいは留まることを肯定するような情報も無数にあるだろう。
今回は遠くに行きたい人たちのことを、自分もそうだが少しは話すことができたと思う。
それともう一つ、シベールの日曜日について語るときにいちばん影響を受けたバンド、裸のラリーズをどう思っているかについても話した。その中で一番話したかったことは、ある種の、ラリーズについて語られる言葉は、ある種のナショナリズムというか、盲目的な自己愛めいたものであるということだ。
例えばラリーズシューゲイザーと呼ばれる音楽を先んじていたというような言葉については、自分は否定的な立場をとるということで、それはそのような文脈を意図していなかったにもかかわらず、後から見る人々がその意味あいを拡大解釈していくという中に見え隠れするか過大評価を否定するということである。ラリーズはクールであるけれど、文脈を後付けすることは誤解につながり、誤解は傲慢につながる。
ですから、我々が今求められているのは、現状のアドバンテージ、例えば50年ほど前から日本では独自に海外の音楽を日本国内で製造していたこと、そして日本にはもともと優れた音楽関係の機材を製造していたということ、それを最大限利用して世界市場で戦っていくこと、戦っていく能力を養うことであるというような話をした。

話は変わって、改憲議論について一つ、加藤周一が生前講演会で言っていたことをまた確認すると、日本以外の国で、例えばフランスなどで改憲が頻繁に行なわれているけれども、それは憲法精神をより強化するため、あるいはより細かいケースに即して憲法精神を表現できるようにするために改正されてきたということ。そして現行憲法の中で、すでに基本的人権は永久の権利であるとうたってあるので、改正はその永久の権利をより具体的に、様々なケースに適合できるようにするため、あるいはより強化すべきだという要請を受けてするであるべきというようなことを語っておられる。であるので自民党改憲案のような、基本的人権という現在明文化されている永久の権利を制限しようとする草案を、為政者が通そうとすることは、それ自体が憲法違反であるということと、他国の改憲とは異質のものであるということは留意すべき点であるように思う。